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Taipei Confucius Temple Confucian Culture

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朱熹

朱熹は字は元晦、のち仲晦と改めた。卒年七十一、文公と謚名された。宋代、安徽に生れて建州に寄居し、家庭は貧困であつた。幼時から聡明、若くして進士に及第し、宋の王朝の四代の皇帝に仕えて、転運副使。煥章閣待制。秘閣修撰を歷任したが、のち監察御史沈維祖の誣告に遭い、左遷ちれ、齡古稀に垂んとして官を辞して帰隱した。初め崇安に住み、まもなく建陽の雲谷(福建省蘆峯)に草堂を結び、自ら雲谷老人または晦翁と号した。晚年は建陽の考亭に滄州精舍を営み、遯翁と号した。考亭で学を講じたのにより、世に考亭学派と称せられたが、朱熹は宋代最大の理学家で、著作すこぶる多く「四書注解」が中の精粋にあたり、「朱文公集」一百卷に詩文を收める。清代では理学といえばすべて朱子に則つた。清の康熙年間に「十哲」の次に列せられて、「十二哲」となつた。

参考文献:台北孔子廟の出版物《孔廟大成殿聖賢略傳》
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